コーヒーとバリスタと僕。
こんばんは。この記事を書き始めたのが夜中2時。一体何時に書き終わるのやらという思いがあるのですが、最近の自分についてお話ししたいなと。
なぜ僕がコーヒーを好きになったのか、なぜバリスタを目指したいなどと突如言い出したのかについてもこのブログで触れています。
生き方
今年の6月ごろから僕はずっと悩み続けている。進振りで悩んだことについては、前回のブログで書いたが、それ以外のことでも色々と悩んでいる。
まあ一つ一つの悩みを列挙していくのはナンセンスだと思うので、個別具体的には書かないことにするが、とにかく悩んでいた。「死」を一つの選択肢に入れるくらいには悩んでいた。「死」について悩んだ話は後ほどする予定だ。
さて、生き方と銘打ったのは、中でも生き方について悩んだということをお話ししたいからだ。
「東大生になったからには、日本を背負え」ということを言われることがたまにあるのだが、うるせえとしか思わない。(この考え方自体すごく時代錯誤的だ)
なんで東大に入ったという理由だけで自己犠牲しなきゃならないんだと。
それなら東大に入らなきゃよかったと思うくらいである。
「将来性を考えて行動した方が良い」ということをたまに耳にする。最近よく言われていることだし、実際僕もそう思う。
だが、やはりその根底には「好き」や「興味」がなければ行動はできないと思う。
将来性を考えれば、バリスタになる道は最適解ではないだろう。
だが、今将来性があると言われている分野や学問に微塵の興味のない僕が無理して手を出しても挫折するだけだろう。
それに、将来性将来性ばかり言って自分の意思を尊重しない人間はなんなんだと思う
将来性がないからという理由でその選択肢は間違いだという言説もおかしいだろう。将来性という言葉にどれほど自由を奪われなければならないのか。
生き方に正解などなく、各人の生き方は自己満足でしかないのだから、批判をするのはお門違いなのではないかと僕は思う。各人の生き方を尊重すればいいじゃないか。
「死」
死にたいと思ったことがある人は何人くらいいるのだろうか。
僕は自殺未遂を何度も繰り返した人と会ったことがあるが、その人に言われたことで印象に残っているものがある。
「東大生だと、死にたいとか思ったことないでしょ?」
その人と会った時の僕は「うん」と答えた。今なら「いいえ」と答える。
僕は夏頃本当に死にたかった。
Q:なぜ死にたいと思ったか?
A:人生の意義など後付けでしかなく、所詮僕は替えがきく歯車の一つなのだから、僕が死んでも他の東大生が日本を背負ってくれます。だから僕は自分の存在意義が見出せなくなり、死んでも別に良いのではないかと思ったからです。
これが夏頃の僕の答えである。
この答えには致命的な欠陥があることをこれからお話ししたい。
この答えは「君の代わりは誰一人としていないが、上位互換が出回っている」という考え方にある程度基づいたものである。それは真なのかもしれないし、真ではないのかもしれない。なぜか。
そもそも人を評価する基準はあまりにも多岐にわたるため、それらすべてを数値化して個人と個人を比較することはまず不可能であると考えられるからだ。一部のスキルを抽出して議論することは可能だろう。たとえば、僕と他の東大生を文章力という点で比較することは可能かもしれない。そして、その人が僕より文章が上手ければ、文章力という点でその人は僕の上位互換と言える。
だが、それだけでその人が僕の上位互換だというのはあまりに軽率すぎないか?
僕の回答に戻ろう。人生の意義など後付けでしかない。確かにそうだと思う。だが、後付けでダメな理由は何かあるのだろうか?
替えがきく歯車の一つ。これも必ずしも真とは言えない。例えば僕の親にとって僕は唯一無二の子供。替えはきかないわけである。また、僕の友達を例にとってみる。友達なんて替えがきくと思うかもしれないが、本当に腹を割って話ができる友達は替えがきく部品だろうか?この問いにそうだと答えられる人はとても悲しい人生を送ってきたのではないかと邪推してしまう。
これが死を選ぶ直接的な原因にはなり得ないと今では思うのである。
歯車だから、他の東大生がちゃんとやってくれるから、死んでいいというのは極めて軽率なように感じてしまう。
余談だが、数日前に母親から『生きるって、なに?』という本が送られてきた。
最近流行っているらしいが、僕は名前を知らなかった。
おそらく死にたい死にたいと言っていた僕を心配して送ってきたのだと考えているが、その本を読んでやはり「死」を選ばなくてよかったと感じた。
内容が気になる方はぜひお手に取ってもらいたいが、ざっくりとこの本を読んで感じたことを以下に記そう。
「どんな人であっても、人と人との連関の中に生きるという運命からは逃れられず、自分は他者に対して影響を与える一方他者も自分に影響を与えている」
仮に、自分が明日死ぬとして、この連関はどう変わるのか考えてみたい。
おそらく何も変わらないように見えて、大きく変わるのだろう。
マクロな視点で見ると何も変わらない。僕の祖父が亡くなった時、祖父という自分に大きく影響を与えた人間が死んだにもかかわらず、世界は何も変わっていないことに深い悲しみを覚えたものだ。
だが、この実例に示されるように、ミクロな連関は大きく変わる。様々な可能性が潰える。もし今祖父が生きていればどうなっていたのか?という「確率的にはありえたもの」が全くなくなってしまう。人が一人死ぬということは大きなことなのだと僕は思う。
そんなこんなわけで、まだ死ぬわけにはいかないと感じた。
病院通いの老後はできるだけ短くして死にたいとは思うが、今すぐ死ぬのはごめんだ。
コーヒー
どうして最近僕がコーヒーに凝り始めたのかと思う人はまあまあいるらしい。
きっかけは6月末の水曜日だった。
精神的に疲弊しきっていた僕は、一度だけ行って居心地が良いと感じたFuglen Tokyoというカフェに行った。
Fuglen Tokyoとはノルウェーのオスロ発のエスプレッソバーだ。
現在、オスロと代々木公園と浅草の3店舗しかない。
ヴィンテージの家具や木製のオブジェクトが配置された室内は居心地がよく、店内に流れるカントリーミュージックが心を癒してくれる。
昼間はカフェタイムということで、コーヒーやパンを提供している。
夜になるとバータイムになり、カクテルやコーヒーを楽しむことができる。
疲れ切った僕は少しリラックスしようと考えていた。
何も考えずに僕はバーカウンターに座った。時刻は23時ごろだったから、すでにバータイムになっていた。
その時バーカウンターに立っていたのは、割といかつい感じのバーテンダーの方だった。一人でゆっくりとしたいなあ、話しかけられるのは嫌だなあと思っていた。
注文したモクテルが届き、(お金もないので)その一杯をちびちびと飲んでいた。
そんな時、そのバーテンダーの方が僕に話しかけてきた。
見た目は正直怖かったが、話してみると実に物腰柔らかな方だった。
何度か他愛もない会話を交わすうちに、自分についての色々なことをその方に語っていた。
ドイツに留学したいとか、デザインがやりたいとか色々なことを。東大生だと言うつもりも毛頭なかったのだが、いつの間にか東大生だということも言っていたし、大学の話も結構した。
その方は高校卒業後に5年ほどニューヨークに行っていたらしい。そこでの体験談や周りにどういう日本人がいたかなど色々聞かせてもらった。留学には目的意識が必要だよねと語っていた。
というのも、語学留学をしにきたのに、日本人向けのキャバクラでアルバイトするうちに学校にも行かなくなってビザは切れるし家には帰れないしという人が周りにいたからだそうだ。
「何か物事をするのに必要なのは、目的意識と危機感だよね」そう語っていた。
留学の例で言えば、何を学ぶかという目的意識。親の金で留学しているからにはしっかりと勉強しなければならないという危機感。もちろん、親のために勉強するというのはおかしいことだが、「勉強させてもらっている」ということは頭に留めておかなければならないことだと思う。
それまで、「大学の勉強なんて」と言っていた僕だったが、その方の言葉を聞いて反省し、大学の勉強にも真面目に取り組むようにしている。
だいぶ話が逸れてしまったが、ここから本筋に戻していく。
そのバーテンダーの方とお話をして非常に胸が軽くなった。
結局、2時間くらい話して深夜1時に店を出た。自己紹介もしてがっちり握手もして帰った。それ以来、僕はFuglenのバータイムの常連になっている。
僕は驚いた。一人のバーテンダーにここまで心を動かされるとは。
僕は驚いた。飲み物(その時はモクテルだったが)を介してここまで会話が弾むとは。
僕は驚いた。カフェという空間の居心地の良さに。
また、Fuglenはコーヒーも有名なので、カフェタイムに行ってコーヒーも飲んでみようと思った。そして実際に足を運んで飲んだ。
これがとても美味しいのだ。それ以来、Fuglenだけでなく、他のコーヒー店にも足繁く通っている。ちなみに僕のおすすめはFuglenの他に神保町のGlitchと人形町のunison tailorだ。
どのコーヒー店もそれぞれの個性があってとても美味しい。
「コーヒーって、豆によってここまで個性が違うんだ。こんなに美味しいんだ」と感じるようになった。
それだけじゃない。
コーヒー店には信じられないほど多様な人が集まっている。外国人や観光客、サラリーマンに若い女性。年配の方がいるかと思えば学生もいる。そして、各々が楽しい時間を過ごしている。
また、僕がコーヒー店に行く楽しみの一つは「バリスタの方とコーヒーについて語らう」ことなのだ。
最近は赤坂のGlitch coffee brewedのバリスタの方と仲良くなった。
やはりコーヒーの話をするのはとても楽しい。ご丁寧にオススメのハンドドリップのやり方まで教えていただいた。
そこから、僕はカフェで行われる人のインタラクションに興味を抱いた。
これを研究したいがために、今年の冬はノルウェーに行く予定だし、来年からはバリスタとして働くつもりだ。
あの時、Fuglenに行っていなかったら、コーヒーに興味を抱くこともなかっただろう。
今の自分はいなかったかもしれない。
これからの僕
近い話からしていこう。
1:五月祭にコーヒーを出店します
来月ごろから大々的に広報も行っていこうと考えている。
こだわりとしては、
- 「素材」本来の風味を活かす
- 会話を重視する
ということを前面に押し出して行く予定だ。
「コーヒーは嗜好品」という考えの下、価値あるコーヒーを一杯一杯ハンドドリップで提供する。
そして、バリスタとお客さん、お客さん同士の会話を重視して行く予定だ。どうすれば会話が自然に生まれるかなど真剣に考えていきたい。
2:来年秋から休学します
五月祭のコーヒー出店は五月祭で完結する気は毛頭ない。
その後、「新たなカフェのあり方を模索する」ということを中心に活動を続けて行く予定だ。
そうした、会話を自然に生むような場所のデザイン・コーヒーを通じたコミュニティデザインを行うべく少し活動しようと思っている。
そのためにしばらく休学するつもりだ。
休学中にはバリスタとして働くこと以外にも色々と勉強をして大学に戻りたい。
最後になるが、本当にここまで読んでくださった方には頭が上がらない。
4500字を超える長文を読んでいただいたことに感謝するばかりだ。
僕は周りに何と言われようとひたすら前に進んで行く。
黙って見守っていただけると本当に嬉しいです。
これからもよろしくお願いいたします。