今飲んでいる黒ビールが尽きるまで筆を走らせる〜愛するとはなんなのだろうか〜

今、僕は近所のスーパーで買ってきたTOKYO BLACKという黒ビールの封を開け、一口ずつ飲んでいる。これがうまい。ビールの味を知っている訳ではないが、これは3本の指に入るほどうまい。ややフルーティな感じがして口当たりが良い。

 

バックグラウンドミュージックはflumpool。僕が中学生の頃から好きなバンドで、特に好きな曲はtwo of us、ベガ、イイじゃない?、WINNERといったところ。聴いたことの無い人は君に届け、花になれ、星に願いをくらいは聴いておいたほうが良い。必須教養だと思う。

 

さて、なぜ僕はflumpoolが好きなのか。それは彼らの歌う恋や愛があまりにまっすぐで美しいものだからだと思う。エンターテイメントとして楽しむ分には泥沼な恋愛が好きなのだが、どうも自分ごととして捉えるとなるとそういうまっすぐな恋に憧れる部分もあるみたいだ。少女漫画に憧れる女子高校生みたいでやや気恥ずかしさも感じる。

 

flumpoolを聴くと昔の自分の恋を思い出す。恋愛の仕方などほとんど知らなかったが、それでも誰かを好きだという気持ちは本物で、何度か告白もした。うまくいったこともあればうまくいかなかったこともあった。泥沼にはまってしまったこともあるが、概ね良い思い出だし、夢のような時間だったのかもしれない。

 

高校時代に初めて恋をした。それは実らなかった。その後も高校の間に何度か人を好きになったことはあるが、告白まで至ることは少なかった。その頃の自分は恋愛というものにあまり思い入れがなかったのだと思う。「他人に興味がない」という言い訳を繰り返していた記憶がある。この発言は言い訳でしかなく、真ではない。僕は他人に興味がないわけではなく、それどころかむしろ他人への興味に突き動かされることが多い。

 

ルソーは『言語起源論』のなかで、「欲求が人を引き離し、情念が人を近づける」といった。これは賛成できる部分もあればそうでない部分もあるが、情念が人を近づけるというのは真だと思う。他人への興味により、その人と関わりたい・その人と遊びたい・その人と深い関係に至りたいという生活上「不必要な」情念が湧いてくる。そしてルソーはこう続けた。「情念を伝えるために言語というものが生まれた」のだと。

 

情念を伝えるものが言語ならば、愛は言語というものを通じて伝えられる。実際に告白する際には、愛は言語という形態によってこの世に生を受ける。むしろそれ以外の存在証明はないのだと僕は思う。言語を介さなければ、愛は生まれ得ない。

 

では、この愛とはなんなのだろうか。僕は最近ずっとこのことを考え続けている。

 

愛とはセックスだろうか。愛するとは与えることだとエーリッヒ・フロムは自著『愛するということ』で述べた。彼はその中でセックスについて言及しているが、愛すなわちセックスということではないと思う。この辺りの彼の思想については十分な理解が至っているわけではないため、さらに理解を深める必要があると思う。

 

果たして愛とはなんなのか。与えることと受け入れることだというフロムの主張は一理あると考えている。自分自身を曝け出し、ありのままの相手を受け入れることが愛なのかもしれない。これができなければ愛は成立しないのかもしれない。しかしながら、無償の愛というものも存在するのは確かだろう。「相手がありのままの自分を曝け出すか出さないかは問題ではなく、自分自身をさらけ出し続けること」ということが無償の愛だと考えている。高校時代の僕は非常に歪んだ人間であったため、「無償の愛など存在せず、人は皆その対価を求め続けている」と考えていた。

 

これは非常に幼稚な思考だったと今では考えている。何かの対価がなければ、何かを与えることができない人間というのは非常に貧しい人間なのではないだろうか。精神的な貧しさが見て取れる。だからこそ僕はいう。無償の愛は存在するだろうと。

 

話を本筋に戻そう。愛とは何か。未熟な僕が今早急な結論を下すとするならば、

相手を慈しみ、尊重し、ありのままの相手を受け入れつつ自分を曝け出し、かつそれが一時的な激情によるものでないということなのかもしれない。

 

明確な定義などできない。それで良いと思う。人生経験を積んでからまた再び考えれば良いのだろう。だからこそ数千年にわたって議論され続けてきたテーマなのだと思う。

黒ビールが尽きてしまった。今日はここまで。

みんなもヤッホーブルーイングのTOKYO BLACKを飲もう。肴はチーズが良いと思う。